…………皆さんは、日本文学において「三大奇書」と言われる3つの書物をご存じだろうか? いずれも難解な文章や一筋縄ではいかない内容の推理小説で、ひと言で言うとすごく読みにくい。しかし、「奇書」には何とも言えぬ魔力があり、我々はそれに惹かれてしまう。
そこで今回は、読書好き編集部員・杉浦が、「三大奇書」をできるだけ噛み砕いて紹介。本記事に目を通していただければ、読みにくくて有名な「三大奇書」が少しだけ読みやすくなる……かも。
2023年10月27日〜11月9日は、公益社団法人読書推進委員会が制定した「読書週間」だそうだ。秋の夜長に「奇書」の読破を目指そう
一般に日本の「三大奇書」とは、夢野久作「ドグラ・マグラ」(1935年)、小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(1935年)、中井英夫「虚無への供物」(1964年)の3作品を指す。いずれも日本の推理小説史上に残る名作として、ファンからカルト的な人気を誇る作品だ。
推理小説を語るときの指標のひとつとして、「週刊文春」による「東西ミステリーベスト100」というものがある。推理作家や推理小説の愛好者ら約500名のアンケートから選出した、推理小説のオールタイムベスト選定企画で、過去に1985年と2012年の2回実施された(2023年11月時点)。
この「東西ミステリーベスト100」の日本編で、「三大奇書」の3作品ともが、2回連続でベスト20に入っている。つまり約30年の年月を経てなお、3作品とも多くの推理小説愛好家から愛され続けているわけだ。しかも、うち2作は戦前の作品にも関わらず、である。
しかし、「三大奇書」は割と敬遠されてもいる。上述のとおり、多くの人が読みにくさを感じる内容で、途中で挫折する読者が少なくない。この記事は、そんな挫折する恐れのある人向けにお届けしたい。
まず言いたいのは、「三大奇書」を読むなら、大前提として「推理小説だと思うな」ということである。「東西ミステリーベスト100」で評価されていると言ったばかりで申し訳ないのだが、推理小説だと思って読むと挫折する確率はおそらく高まる。すごい罠だ。
というのも、「三大奇書」は多かれ少なかれ、「推理小説というイレモノを借りたジャンルレスな小説」だからだ。推理小説の定石を外れており、かつ一般的な小説と比べて文章中の情報量が多いのだが、あえて身もフタもない言い方をすると、「意味深でわかるようなわからないような文章」「最終的に本筋とそこまで関係ない文章」が多いという特徴がある。登場人物同士の会話シーンなどで、それは繰り広げられる。
なので、文章中に出てくる事件解決のヒントを逃さないよう注意する推理小説のスタンダードな読み方をすると、情報の波に押されて信じられないくらいストーリーが進まない。「推理小説を読み始めたはずなのに、何を読んでるのかわからなくなってきた……」という感じで、頓挫してしまう。
「東西ミステリーベスト100」の高評価とは一体……? とも思うが、後述するように3作品とも名作であることは間違いないのだ。そしてこのランキングは、古今東西の推理小説を読み尽くし、行き着くところまで行き着いた猛者たちによるものであることも忘れてはいけない。「三大奇書」については、定石を外れ、推理小説とは何かと問いかけるような構成であること自体も、ミステリー史上における記念碑的作品として絶賛されるポイントになっているのだろう。
では、我々は「三大奇書」をどのように読めばよいのか? 正直、もうこれは気持ちの問題としか言いようがないので、作品紹介(ネタバレなし)とともに、「三大奇書」ができるだけ読みやすくなる気持ちの持っていき方を個人的に考えてみた。繰り返しになるが、読めるなら絶対に読んだほうがよい名作であることは間違いないからだ。
<作品概要>
時は1926年。九州帝国大学医学部精神科の独房で目を覚ました主人公“私”は、一切の記憶を失っており、自分が誰かもわからなくなっていた。隣の部屋からは、ひとりの少女が死に物狂いで叫んでいるのが聞こえてくる。彼女は“私”の許嫁であり、かつて“私”に殺されたのだと訴えているのだった。“私”は、自分の正体、そして隣の少女が訴える殺人事件の真相を探ることに。自殺した精神医学博士が遺した研究にまつわる書類を読んでいくうち、“私”の正体につながるヒントが少しずつ見えてくるが……。
おそらく、「三大奇書」の中で最も有名なのが本作だ。「これを読了した者は、数時間以内に、一度は精神に異常をきたす」というセンセーショナルな帯を付けて販売された時期もあったらしいが、上述のように出だしの概要を書き出してみると、割と普通の推理小説っぽく見える。……のだが、確かに読んでいると途中から何を推理しようとしていたのか、そもそも何を読んでいるのかわからなくなってくるので、冷静に正気を保ってほしい。
ただ、基本の文体は「割と読めるほう」なのではないだろうか。本作が敬遠されてしまうのは、自殺した精神医学博士の研究にまつわる書類のせいである。主人公“私”の目を通して読者もこの書類を読むことになるのだが、とにかくこのパートが長くて、「意味深だがよくわからない文章」の羅列が何ページも続くのだ。
特に多くの挫折者を生んだと言われるのが、「キチ○イ地獄外道祭文」(※実際は伏せられていません)と題された歌の歌詞が延々と書かれているパート。「スカラカ、チャカポコ」という謎の擬音をはさみながら、意図不明の日本語歌詞がひたすら続く怪文書である。
これが「チャカポコ」の一部である。これを残した正木教授は奇人天才型の精神医学博士だったそう。古今東西、マッドサイエンティスト的な存在は、“怪奇”の作用を高めてくれる
これは絶対にお伝えしておきたいのだが、ここで読むのをやめるくらいなら、「チャカポコ」は斜め読みでOKだ。もちろん、読めるなら読んだほうがよいが、それがしんどくて読書ごと投げ出すくらいなら、斜め読みでページを進めたほうがよい。というか、正直、それで割と問題ない。
そして、本作の大きな特徴「メタ小説」であることも意識したい。一例をあげると、上述の主人公“私”が読む書類の中には「ドグラ・マグラ」というタイトルの小説も入っていて、読者もそれを読むことになる。つまり、「ドグラ・マグラ」という小説の中で「ドグラ・マグラ」という小説を読むというメタ構造になっている。また、作品全体がループするような、らせんのような構成にもなっている。これが戦前に書かれたということを考えると、改めて驚きだ。
本作は読者の数だけ答えがあるタイプの作品だが、この記事を書いている杉浦個人は、ラストはSF小説の名作かつSF映画の金字塔である「2001年宇宙の旅」に通じるオチだと思っている。あえて大げさな表現をすれば、クライマックスでは行間から強風が吹き付けてきたような衝撃を受けた。最後、物語の舞台が、それまでの九州帝国大学医学部精神科から一気に宇宙空間に飛び、主人公も読者もワームホールの渦へグルグル飲み込まれていくように感じたのだ。あくまでも個人の感想として参考程度に留めてほしいが、それくらい衝撃の読書体験だったことを申し添えておきたい。
ちなみに本作、「東西ミステリーベスト100」日本編で、1985年版では6位だったが、なんと2012年版では4位へ順位を上げるという快挙を成し遂げている。時代を下ってさらに評価が高まっているのが興味深い。
<作品概要>
神奈川県某所の丘に建つ、ボスフォラス以東にただひとつしかないと言われるケルト・ルネサンス様式の城館=通称:黒死館。その十三代目当主である医学博士・降矢木算哲(ふりやぎさんてつ)の自殺後、屋敷の住人たちが次々に犠牲となる連続殺人事件が起きた。刑事弁護士の法水麟太郎(のりみずりんたろう)は、降矢木一族の出自や黒死館の建築にまつわる経緯を辿りつつ、事件の解明に挑む。
ネットの情報を見ていると、「三大奇書」の中で最も読みにくいとされているのが本作。刊行されたのはなんと「ドグラ・マグラ」と同じ1935年(昭和10年)だ。「三大奇書」のうち2作品が刊行されるなんて、大変奇怪な年である。
しかし上述のように本作の概要を書き出してみると、「ドグラ・マグラ」以上に普通の推理小説っぽい。タイトルもシンプルで、いかにも推理小説のそれである。ページを開いてみると、まず登場人物一覧が記載されていて、これも往年の推理小説の体裁だ。……が、とっつきやすいのはここまで。
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聖アレキセイ寺院の殺人事件に法水が解決を公表しなかったので、そろそろ迷宮入りの噂が立ち始めた十日目のこと、その日から捜査関係の首脳部は、ラザレフ殺害者の追及を放棄しなければならなくなった。(本文より)
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本文冒頭はこんな一文で始まっており、読者が「……いきなりなの?」とたじろぐようなパンチが効いている。さらに本作の特徴として、「技巧呪術=アート・マジック」「驚駭噴水=ウォーター・サプライズ」「猶太秘釈義法=ユダヤカバラ」などと、難しい漢字に独特の片仮名ルビを振る「ジョジョの奇妙な冒険」や「HUNTER×HUNTER」の技みたいな言葉が頻出するというのがある。これら全部、世界観を作り上げるための装飾だ。
適当にページをめくってみるだけで、この文字面。なお、「栄光の手=ハンド・オブ・グローリー」は、絞首刑になった罪人の腕を切断して死蝋化したもので、魔術に使われたものだという
本作はこういう世界観をベースに、著者が持つさまざまな芸術や悪魔学、神秘科学、呪術、占星術、中世ゴシック趣味などの知識を語る記述が、作中の至るところにばらまかれる。河出文庫版の裏表紙の作品紹介にも「めくるめく一大ペダントリー」と書かれてあるので、基本的にはペダントリー(衒学・げんがく=学問や知識をひけらかすこと)文学という位置づけでよいのだろう。読者は読んでいるうちに、「この情報、たぶん推理には関係ないよな」と察してくる。そういうパートがとにかく多い。
つまりは、散文だが著者独特のルールがあり、これを芸術的な筆力ととらえる人もいれば、ある種の「中二病」的文体としてとらえる人もいて、「こんなの小説じゃない」と思うと挫折が近づくのだ。ただ、知識をひけらかすだけの中二病的小説という認識で終わるのはもったいない。何がすごいって、ペダントリーを形成するさまざまなモチーフの文字面が、死体や殺人現場、人間関係の描写に格別の怪奇効果を生んでいる。このめくるめく描写力を体感してほしい。
ということで、本作は自分で推理しようなんて考えず、絵を鑑賞するように文字面のゴシックロマンス感を楽しむのがいちばん手っ取り早い。西洋絵画では鳩=平和を表すといったような「象徴と寓意」があるが、こういう絵画の表現を文章で実践したものと思って読むと、本作は格段に面白くなってくる。むしろ事件の推理はサブストーリーとして、探偵役に任せるのが吉。一応、最後には解決するが、読んでいるうちにそんなことは気にならなくなってくるので。
<作品概要>
北海道の地に因縁を持つ氷沼一族の当主は、先祖代々、変死を遂げる人物が多く、アイヌの祟りを恐れていた。そして物語の舞台は1954年12月の東京。駆け出しのシャンソン歌手・奈々村久生のもとに「近いうち氷沼家には、必ず死に神がさまよいだす」という予言の手紙が届いた頃、氷沼家のひとり・藍司の近くにアイヌの男が現れた……。探偵役を買って出た久生たちは、事件が起こる前に犯人を突き止めようと、早くも推理合戦を開始する。しかし、実際に第一の死者が出てしまい……。
上述の「黒死館殺人事件」とは反対に、「三大奇書」の中で最も読みやすいとされるのが本作だ。推理小説であることを拒否する反推理小説(=アンチ・ミステリー)の傑作と言われ、例の「東西ミステリーベスト100」日本編でも、なんと2回連続で2位を獲得するという人気ぶりである。著者の中井英夫は、13歳のとき(1935年)に「ドグラ・マグラ」と「黒死館殺人事件」を愛読していたそうで、自身の代表作がそれらと同じ列に並んだことになる。
確かに本作は、ほかの2作と比べて歯切れのよい文章で読みやすい。執筆・刊行されたのが戦後の1950〜1960年代で、さすがに戦前の作品よりは身近というのもあるだろう。目白や西荻窪、泪橋(三ノ輪)など、出てくる東京の地名もなじみがあって現代でもとっつきやすい。
推理小説というのは概ね、先達へのリスペクトを掲げているものだが、本作もさまざまな過去の名作ミステリーが作中で引用されており、オマージュも多い。特に「黒死館殺人事件」と比べて読むとより楽しいだろう。
本作が「奇書」と言われるゆえんはおそらく、「黒死館殺人事件」の系譜であるペダントリー(とはいえ「黒死館〜」ほどではない)と、推理小説の定石を覆すアンチ・ミステリーの展開になっていること。たとえば、本作では「殺人事件が起こる前に探偵役が推理を始める」、「密室で死体が発見された直後に、探偵役が“やり方はわからないけど密室じゃない”と言い張る」など、通常の推理小説とは異なる筋立てのオンパレードなのだ。
物語の序盤にある探偵役・久生の台詞「ふつうの殺人事件と筋立てを全部逆にしちまわない?」を読んで、読者はこの小説がやろうとしていることを悟る(講談社文庫版では64ページ目)
推理小説の名作と聞いて期待して読み始めたものの、「なんか思ってたのと違う……」となってしまう人もいるだろう。それに内容が長いことも手伝う。何せまだ起きていない事件を推理するところからスタートするので、実際に第一の死者が出てくるまで時間がかかるのだ。
だがもちろん、このアンチ・ミステリー構成こそが本作の真髄。読み方としては、推理小説としてのストーリー展開の裏切りを楽しむのがよい。「虚無への供物」以前に存在した国内外の名作ミステリーが確立してきた、推理小説によくあるルールやモチーフを、本作が崩していく様は圧巻だ。
しかし同時に、このあたりの面白さは、推理小説に精通している人でないと感じられないという罠がある。「三大奇書」の中で最も読みやすいにも関わらず、その面白さを存分に味わうためには、ある程度の前提知識が必要という難しさ。そして推理小説としては内容が長いが、アンチ・ミステリーとしてはむだがない。これらの絶妙なジレンマを読者に抱かせるバランスも含めて、最高クオリティーの一作と言える。
ここで紹介した「ドグラ・マグラ」と「黒死館殺人事件」の2作品はすでに著作権が失効しており、なんと「青空文庫」で読める。この2作品を電子化するためにボランティア作業した方々がいると思うと、ただただ拍手を送りたい。
なお、この記事を書いている杉浦は、「ドグラ・マグラ」は電子版でも読めたが、「黒死館殺人事件」は電子版だと読みづらくて紙でしか読んでいない。認知科学的に見たら、双方の作品性の違いなんかが関係していたりするのだろうか? 機会があれば、詳しい方に考察をお願いしたいものだ。
なお、河出文庫版「黒死館殺人事件」の巻末で澁澤龍彦が「読者をして謎解きへの興味へ赴かしめる要素はほとんどないと思われる」と書いているが、これは多かれ少なかれ3作品ともに通じる。反対に言うと、読者にとってのメインは謎解きではないので、犯人がわかったあとでもその内容を楽しめるということだ。実際、クリア後のやりこみ要素が楽しい神ゲーみたいなもので、3作品とも何度も読み返して楽しむことができる。
というわけで「三大奇書」は結局、いずれも難解な文章や一筋縄ではいかない内容の推理小説で、ひと言で言うとすごく読みにくいのは事実である。しかし、「奇書」には何とも言えぬ魔力があり、やはり我々はそれに惹かれてしまう…………。