PDA博物館
Webサイト「パーム航空」の「機長」が顔出しで語る

「心の病を治してくれたPalmへの恩返し」Project Palmの40万字はこうして生まれた


Palmユーザーで、彼の名を知らない人はいない――。Webサイト「パーム航空」の「機長」、満を持しての登場である。

同サイトは、1997年11月にスタートして2000年2月に幕を閉じるまで、多くのファンを獲得し、Palmの普及に多大なる影響をおよぼした。その後、機長は本名の「伊藤正宏」という名前で、「Project Palm」という長編ドキュメンタリーを執筆。2008年に電子書籍として出版し、トップセールスを記録した。長年、顔出しNGで謎の存在だった機長が初めて、顔出しインタビューに応じた。(※聞き手=PDA博物館初代館長 マイカ・井上真花)

「パーム航空」の「機長」(伊藤正宏)。放送作家。「料理の鉄人」、「めちゃイケ」、「クイズ$ミリオネア」、「大改造!劇的ビフォーアフター」、「MUSIC STATION」、「空から日本を見てみよう」、「和風総本家」、「ポツンと一軒家」……など。09年、双子のパパに。お別れのあいさつは「じゃ。」

パーム航空が目指したこと

――機長がPalmを使い始めたきっかけは?

最初に使ったのは、USロボティクスの「Palm Pilot」です。1997年夏、ちょうどこのマシンが発売された時に買いました。

「Palm Pilot」(USロボティクス)

「Palm Pilot」(USロボティクス)

当時、Macのノートパソコンを使っていました。ところが、当時のMacでスケジュールを確認しようと思うと、起動するだけでも、えらく時間がかかる。それで、スケジュールがパッと確認できる端末が欲しかったんです。

そこでまず、当時CMでも有名だった「ザウルス」(シャープ)を買いました。だけど、動作が遅すぎるし、そもそもMacとちゃんと連携できない。もっといいものがないかと探したら、雑誌のモバイル特集の片隅に「Palm Pilot」が紹介されていて、「これ、何だろう?」と。なぜか、心がひかれてしまって、生まれて初めて秋葉原に行きました。で、雑誌に書いてあった小さなモバイル専門店「イケショップ」(関連記事:PDAブームの真実。あのPalmを“極東の小さなショップ”が世界で2番目に売っていた!)に行って、購入したのがPalm Pilotでした。

――なぜ、Webサイト「パーム航空」を作ったんですか?

実は僕、20代は小劇場の役者でしたが、ちょうど30歳になった時に(それまで副業だった)テレビの放送作家に転職しました。デビューが遅かったせいもあって、「何とか早く結果を出さなくちゃ」と、めちゃくちゃ仕事を頑張っていた時期でした。週のほとんどを3時間弱の睡眠で過ごして……という感じで。当時、冗談で「ナポレオンは寝過ぎだよな。毎日3時間も寝るなんて!」と言っていたぐらいの、バカでした(笑)。

そうこうするうち、僕の担当していたテレビ番組「料理の鉄人」や「めちゃイケ」がヒットしてくれて、放送作家としてだんだん認められるようになりました。ところが、それまでの無理がたまりにたまって、爆発したのでしょうか。1997年の秋、仕事的には絶好調だった真っただ中に突然、体と心がぶっ壊れたんです。

仕事に行かなくちゃと思っても、どうしても体が動かない。天井を見て涙が止まらない、みたいな状態が突然やってきた。今思えば、きっと、ある種の「心の病」だったんでしょうね。でも、当時はそんな知識もなかったから、「どうしちゃったんだろう、僕」と途方に暮れました。

最初は、「すべての仕事を辞めてしまおう!」ぐらいのところから始まって、だんだん落ち着いてきて、とりあえずできるだけ仕事の量をセーブして、体を休めようとしました。最小限の仕事だけ頑張ろう、と。でも、それまでほとんど眠らずに仕事をしていたせいで、急に眠ろうとしても、なかなか眠れない。

そこで、眠れない夜明けなんかに、夏に買って以来、ずっとほったらかしにしていたPalmをいじり始めたんです。

Palm Pilotとの出会いについて語る、伊藤氏

Palm Pilotとの出会いについて語る、伊藤氏

でも、MacとPalmのHotSyncがどうしても、うまくいかない。何とかならないものかと調べながら、いろいろ工夫してみると、ようやくできるようになった。その時に思ったのは、「同じようなところで挫折しているユーザーがいるのではないか?」ということ。そんな人たちの役に立てばと思って、「PowerBook2400でHotSyncに苦しんだ夏!」というWebページを1枚だけ作り、インターネットにアップしてみました。

すると、数日後に知らない人から、「助かりました!」といったメッセージがメールで届いた。これがとてもうれしかった。テレビ番組の時とは違う、直接的なコミュニケーションが新鮮でした。数日後に、また知らない人から「ありがとう」というメールが届いた。やっぱりうれしい。翌日また届いた。で、そんなふうに眠れない夜が来るたび、似たようなページをまたアップするようになって、3ページ目をアップする時に、「せっかくだから、ちゃんと表紙を作ってWebサイトにしてみよう」と思いたち、やっぱり眠れない夜明けに作ったのが「パーム航空」でした。

パーム航空

パーム航空

――ところでなぜ、ご自身を「機長」という名前にしたんですか?

機長のイメージ(パーム航空より)

機長のイメージ(パーム航空より)

今や、もう覚えている人が少ないと思うけど、Palmはそのころ、まだPilotという名前だったからです。Pilot、つまり機長です。機長とくれば、空港。だから、サイトの名前をパーム航空にしたんです。

――あ、そりゃそうだ! 今ごろ気がつきました(笑)

“神様”の誕生

――たしか、はじめて山田達司さんを“神様”と呼んだのが、機長だったんですよね?

そうですね。パーム航空を始めて1か月ぐらい経ったころ、例の、秋葉原のお店で山田達司さん(関連記事:Palmが作り上げた“スマホのスタンダード”とは? スマホ誕生の影に、PDAという大いなる実験の舞台)とお会いすることができました。

当時の山田さんは病気の調子があまりよくなくて、おそらくご本人的にはたいへんな時期だったと思います。でも彼には、「日本でPalmを普及させるためなら何でもする!」という強い情熱があり、ネットでPalmのために活動している人を見つけては、いろんな形でサポートしていました。そんな流れの中で、僕も山田さんに見つかって、秋葉原のお店で初対面を果たしました。

――そんな山田さんのことを、なぜ“神様”と呼んだのですか?

本国アメリカでも当時は、Palmの文化はまだ始まったばかり(2年目)。だから、日本語化されてない日本では、誰にも見向きもされていませんでした。扱っているお店も、秋葉原にあった古川敏郎店長のイケショップぐらいしかなくて……。

そんな時代に、ゼロから日本語化ソフトを作りあげ、ゼロから基礎的なアプリを作り、ゼロからコミュニティの種をまき続けていた山田さんを見て、「あ、神様だ」と素直に思いました。

山田氏が開発した日本語化キットをパッケージ化した「J-OS」(※画像は「イケショップ」取材時のもの)

山田氏が開発した日本語化キットをパッケージ化した「J-OS」(※画像は「イケショップ」取材時のもの)

実は、当時の彼は非常に深刻な病気を背負って、めげそうになる心をはげましながら、そうした作業を続けていました。その結果、「心の病」から逃げるように、この世界にきていた私が、そんな彼に、強い感情移入をしてしまったんだと思います。この時から「パーム航空」は、山田さんを中心とする「日本のPalmコミュニティ」をサポートするWebサイトになり、僕はサイトの中で山田さんのことを、このコミュニティの象徴的な存在として“神様”と呼ぶようになりました。

機長による山田さんイラスト(パーム航空より)

機長による山田さんイラスト(パーム航空より)

――パーム航空の運営は、うまく行きましたか?

僕のサイトは、Palmのためにがんばっている、すべての人を応援するサイトなので、運営は平和に進むだろうと思っていました。ところが、やがてサイトの人気が高くなり、アクセス数が増えるにつれ、肯定的なリアクションだけじゃなく、否定的なリアクションも届くようになりました。

当時はまだ黎明期のインターネットだったので、現在の“喧嘩上等なSNS”ほど過激な世の中ではなかったと思いますが、メーラーに届く言葉の中に、たくさんの賛辞とともに、否定的な言葉も混じるようになってきました。それは、いつも以上に心がナイーブになっていた当時の私には、大きな驚きであり、恐怖でもありました。

そんな否定的メールを読んで、最初はこのまま逃げてしまおうと思いました。だって、もともと僕は、自分の「心の病」から逃げ出すために、インターネットの世界にきていたわけですから。

ですが、どうせ眠れない夜なんだからと、届いた否定的メールに一所懸命、返事を書いて送ってみたところ、少しだけ肯定的なメールが返ってきました。ちょっとだけ、うれしくなりました。今度はそれを補強するような内容を、パーム航空の記事の中に書いてみました。すると、さらに少しだけ肯定的なメールが届きました。またまたちょっとだけ、うれしくなりました。

そうやって、否定的なコメントをくれる相手に向かって、パーム航空の記事や、メールの返信を通して、ていねいに呼びかけているうちに、相手もだんだんやさしい言葉になってくれて、気のせいかもしれないけど、たがいにわかり合えたような気がしました。

ガチガチに固まっていた相手の心をゆっくりと溶かしているつもりが、実は、ガチガチに固まっていた自分自身の心をゆっくりと溶かしていたように感じました。そう思った時、僕の中に、えも言われぬ幸福感が広がり、心の病が少しだけ軽くなった気がしたんです。この時、僕は決意しました。心の病から脱出するために、このサイトを本気でがんばってみよう、と。

「心の病から脱出するために、パーム航空を本気でがんばってみよう、と」(伊藤氏)

「心の病から脱出するために、パーム航空を本気でがんばってみよう、と」(伊藤氏)

それ以来、パーム航空の中で僕は、Palmのために活躍するさまざまな人間、そして製品やサービスの魅力を紹介し、人や物を応援しました。そうすることで、できるだけたくさんの人たちを幸せにしようと努力しました。もちろん、「Palmのため」という大義名分は嘘ではありません。ですが本音は、そうすることで、自分の心の病を回復させることができるかもしれないと、勝手に思い込んでいたのです。非常にわがままな理由でしたが、当時の私は必死でした。本職の仕事量を減らしたまま僕は、しばらくの間サイトの更新を続けました。

こうして心の病はゆっくりと回復していき、2000年2月、勝手に完治したと確信した僕は、本職の仕事量を全盛期のように再び増やしました。それと同時に、パーム航空の更新も突然中止してしまいました。

――2000年といえば、Palmがもっとも元気だった時期ですよね?

そうです。だから多くの人に「これから盛り上がっていくのに、もったいない!」と言われました。でも、まさにこの2000年ごろから日本では、Palm社やハンドスプリングの日本法人はもちろん、日本IBMやソニーなど、米国の先進企業や日本の大企業が、本気でPalm普及のために動き出していたので、もはや、僕のような個人が何かをする時代ではないとも思っていました。もう、自分の仕事は終わった。そう確信していました。

Palmの歴史を、40万字の本にまとめた理由

――その後、「Project Palm」という本を書き、電子書籍として出版しましたね。それはなぜ?

Palmのコミュニティは僕にとって、心の病からの復帰を助けてくれた恩人のような存在だったので、そこを去る時に、何か恩返しをしたいと思いました。

その時、Palmの歴史を書いた本がまだ存在しないことに気づきました。これからモバイルの歴史に名前を残すだろう、Palmに歴史書がないのは残念だ。そう思った時、自分にはパーム航空を更新し続けたおかげで、日本はもちろん、アメリカ本国のPalmの歴史について、おそらく世界でもトップクラスの情報を知る立場にあり、また、当時の業界で、最先端の人たちとのコネクションがあるじゃないか、と。だから、Palmの歴史物語を書いたら、恩返しになるんじゃないか、と。

そこで、さらなる情報を入手するため、Palmの関係者に追加取材することにしました。1999年には、シリコンバレーに2度ほど行って、Palmの生みの親であるジェフ・ホーキンスさんをはじめ、同プロダクトデザイナーのロブ灰谷さんなど、Palmを作ったキーマンたちに会ったほか、日本でも、たくさんのキーマンたちに会って話を聞きました。もちろん、ネットからも多数の情報を集めました。とはいえ、当時はPalmについての日本語資料がほとんどなかったので、「サンノゼ・マーキュリー」(San Jose Mercury News)など、英語記事を読みあさりました。

――英語は堪能だったんですか?

全然! だからたいへんでしたよ。今みたいに、賢いWebの翻訳サービスはないし。ただ、単語をコピーして、辞書にペーストして意味を調べる程度のことはできたので、それで何とか読み進めました。そういうことを続けているうちに、翻訳能力だけは高くなりました。

ちなみに、この能力は後で、イギリスの人気番組だった「クイズ$ミリオネア」を日本版にローカライズする時、おおいに役立ちました。

こうして追加調査を続けているうちに、Palmの歴史の全貌がどんどん明らかになってきました。そこには、やはり壮大なドラマがありました! しかし、残念ながらこのことは僕しか知らない。ということは、僕が書かなければ、誰にも知られずに消えてしまう。何とか残しておかなければ……という考えは、確信に変わりました。とりあえず、頭の中にあることをすべて書き出す作業から始めましたね。このころは、本職の仕事の合間にノートパソコンを使ってどんどん書き進めました。その夏、家族旅行でハワイに行った時は、毎日プールサイドで朝から夕方までこれを書いていました。

――すごい! 家族は嫌がったでしょうね……(笑)

はい。でも、それよりもバカンス中の欧米人たちから「クレイジーなやつめ!」って顔をされて、何度か、舌打ちされたりしていました(笑)。

こうやって、とにかく書きまくったのですが、Palmの歴史の後半を書いているうちにだんだん筆が進まなくなってきました。

Project Palmが誕生するまでの経緯を語る、伊藤氏

Project Palmが誕生するまでの経緯を語る、伊藤氏

――どうして?

このころには、僕の本職の仕事もフル稼働していたせいで、執筆作業が遅れに遅れて、そうこうするうちに、現実世界のPalmも絶頂期を過ぎて、どんどん雲行きがあやしくなってきたんです。

特に、本国の資料を読んでいると、その傾向は強く、ほんの少し前までマイクロソフトを抜いてモバイル世界のトップランナーだったPalmは、このまま現在の「iPhone」のようになれたかもしれないのに、歴史に翻弄されるうちに、凋落が始まってしまった。

そうなると、どうしても筆が進まなくなりました。なぜならこのままでは、私がPalmの世界に遺したかったもの……つまり、「素晴らしいPalmの歴史」ではなくなってしまうからです。そこで後期の歴史、つまり、Palmが栄耀栄華(えいようえいが)を極めてから、ゆっくりと凋落していくまでの物語は書かず、その前でやめることにしました。そして、その原稿を編集の野田幾子さんにお渡しし、「どうかこれを書籍にして。お願い!」と頼んだんです。

ところが、出版を引き受ける出版社がない。のんびり書いてるうちにPalmの歴史が下り坂になってきて、出版社が二の足を踏んだというのも理由のひとつですが、実は最大の理由は文字数でした。原稿は全部で40万字! これを「紙の出版物」として出そうとすると、とんでもなく分厚い本になる。この文字数がハードルとなり、紙の出版物が現実的ではなくなってしまったんです。

そこで、野田さんから「電子書籍にしてはどうか」と提案されました。野田さんの知り合いである「マイカ」から電子書籍として出版するのであれば可能性があると、荷が重すぎるこのバトンを、たった今、私の目の前にいる井上さんに突然渡してしまったわけです(笑)。

――とはいえ、40万字ですから(笑)。

すいません。先ほども言ったように、とにかく資料の多くが自分の頭の中にしかないので、覚えていることを全部書いてしまおうと思って、全体構成もまったく考えないで、連載小説のつもりで書き殴っているうち、気がついたら40万字(笑)。

――私も、野田さんから原稿を受け取ったはいいけど、どうしようかと途方に暮れました。幸い、渡辺さんという、腕利きの編集者さんが助っ人に名乗り出てくれたのでうまく、まとまりましたが。

そうでした。結局、電子書籍にするにしても2冊に分冊したほうがいいということになり、渡辺さんが腕を振るってくれたんですよね。上下きっちり20万字ずつになっていて、驚きました。本が出版されたのが、2008年12月。まあ、本職の隙間を縫って書いたせいもありますが、何と書き始めてから、10年近い時間が経ってしまいました。

――出版後、反響はありましたか?

おかげさまで、たくさんの人たちからメールで感想をもらいました。そんな感想を読みながら、あのころの、Palmの世界のキラキラした情熱やパワーを思い出したりしました。そして、僕にとっては恩人とも言えるPalmのコミュニティのために、何とかこの本を世に出すことができて、本当によかったなと思いました。かなり遅くなってしまいましたが……。

それと、スマホ時代の今、改めてこの本を読み直すと、iPhoneが生まれる前のスマホ前史としても楽しんでもらえると思います。ああ、当時のアレが今のアレになったのかぁ、とか。あの時、アレがああだったら、PalmがiPhoneになっていたかもしれないなぁ、とか。歴史にタラレバは禁物ですが(笑)。

取材を終えて(井上真花)

当時の私は、いつもパーム航空の文章を読みながら、「こんなステキな文章を書く機長って、いったいどんな人だろう」と想像をめぐらせておりました。というのも、彼自身、ずっと顔出しNGで通してきたものですから。「Project Palm」の原稿を持ち込まれた時に初めてお会いして、「ああ、こんな方だったんだ」と感激したのを、今でも覚えています。今回、PDA博物館の取材をお願いするにあたり、「お顔写真は……」と聞いたところ、「大丈夫ですよ」というお返事。ついに、そのお顔を公開できる日がやってきたのです! さあ、おのおの方! 今日こそ、機長のご尊顔に刮目(かつもく)せよ!

オフィスマイカ

オフィスマイカ

編集プロダクション。「美味しいもの」と「小さいもの」が大好物。 好奇心の赴くまま、良いモノを求めてどこまでも!(ただし、国内限定)

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