LXの操作感そのままで、iPhoneの文字入力が可能に! かづひ氏が作った「Bluetooth Keyboard for iPhone 5s」は、記事本文の最後でご紹介します
モバイル黎明期に誕生したPDAを振り返る本連載。今回、HPのミニPC「HP95LX」を日本語化する際にキーマンとなった、かづひ氏に話をうかがった。
以前登場したNORI氏(関連記事:PDAの黎明期を下支えした「恵梨沙(えりさ)フォント」が25歳に。その誕生秘話とは?)とともに、LXの日本語化に尽力した、かづひ氏。LXユーザーの間では知らない人がいないほどの著名人だが、早々に活動の場を国外に移したこともあり、これまで、あまり実態が知られていなかった。
2019年11月、そんなかづひ氏から、Twitter経由で著者に連絡が入った。いわく、「PDA博物館の連載を目にして、何と、機長さんが顔出し名出しで登場していて、椅子から転げ落ちました」とのこと(関連記事:「心の病を治してくれたPalmへの恩返し」Project Palmの40万字はこうして生まれた)。
ちょうど今回、かづひ氏が帰国したタイミングでもあったということで、「取材させてもらえませんか?」と依頼し、インタビューが実現した。(※聞き手=PDA博物館初代館長 マイカ・井上真花)
寺崎和久(かづひ)氏。高校2年生の時、自分のアイデアが商品化されたのを皮切りに、2足歩行ロボットキットなど、趣味で作った物が多数商品化されている。人呼んで「パチもん発明家」。シリコンバレーのMaker Faireで5年連続受賞したほか、「xxxを歩かせてミタ」YouTubeシリーズでミリオンヒットを達成するなど、テクノロジー系お笑い芸人的な面も。本業は組み込み系サラリーマンエンジニア
――かづひさんはどこで、LXを知ったんですか。
1991年、「ザ・ベーシック」(技術評論社)という雑誌の記事で知りました。その翌年に日本ヒューレット・パッカードに就職し、社員販売でHP95LX(512KB)を購入しました。1MBバージョンが出る前に、在庫処分されていたんですよ。僕の部署は、LXの部署(CPO)とはまったく関係ない、Unixサーバーの部署(PSO)でしたけどね。
――社内販売で! 知らなかった。最初にHP95LXを見た時、どう思いました?
LXはDOSだから、中身が解析できたんです。よくできていると思いました。いろいろ見ているうちに、表示コードを自分が書いたコードと置き換えれば、何とか乗っ取れそうだと。それが「KDISP」(LXの画面に日本語を表示させるためのディスプレイドライバー)の発想のもととなりました。
――なぜ、LXを日本語化しようと思ったんですか?
僕は、Lotusが作ったLXのシステムマネージャーのアプリが好きだったんですよ。
Lotusはもともと、DOS上で動く「Lotus Agenda」などのPIM(パーソナル・インフォメーション・マネージメント)ソフトを作っていたんです。それをもとに、システムマネージャーのアプリを作ったから、とてもよくできていた。使っているうちに、このよくできたアプリを日本語化して使いたいと思うようになりました。
「日本ヒューレット・パッカードに就職し、社員販売でHP95LX(512KB)を購入しました」
1992年5月、とても印象的なできごとがありました。mani氏が「jmemo」をNIFTY-Serveライブラリに登録したんです。jmemoとは、システムマネージャー上で使えて、マルチフォントに対応した日本語エディターソフト。ひと通りの編集機能と、ローマ字かな漢字変換を内蔵していました。
実はその前に、「日経MIX」上でsanta氏が公開した「KTYPE」というDOS上で日本語を表示するソフトもありました。しかし、それを使うにはDOSに下りる必要がある。しかも、表示しかできません。ところがjmemoは、システムマネージャー上で日本語表示だけでなく、入力までできた。とても画期的なソフトだったんです。
jmemoの登場に、僕たちはみなびっくりしました。しかしmaniさんは、このソフトを登録したあと、さっさといなくなってしまったんです。われわれLXユーザーにとってはヒーローなのに、彼は何も誇示することなく、さっと消えてしまった。それが、とてもクールでかっこよかったんです。彼が示したビジョンが、僕のモチベーションを一気に引き上げたといっても過言ではありません。
――そして1992年のクリスマス、日本語が表示されるディスプレイドライバーが公開されるんですね。
まず僕が、システムマネージャーで日本語を表示するディスプレイドライバー「KDISP95.SYS」を開発。これによって、HP95LXの内蔵アプリすべてで、日本語を表示できるようになりました。この時、HPの社内報では、「HP 95LXを趣味で日本語化しちゃった新入社員」として紹介されてしまいました。
すると、次に欲しくなるのは書き込める環境。1993年1月、NORIさんと直接会う機会にめぐまれたので、そこでアイデアを出し合いました。「FEP.exm」というシステムマネージャー上で動くソフトウェアと「KDISP95.SYS」が連携すれば、システムマネージャー上でも、日本語を入力できるようになるのではという話になり、やってみようということで始めたのが、日本語化プロジェクトです。その結果、うまくいきました。
「NORIさんとお会いする機会にめぐまれ、日本語化プロジェクトが発足しました」
――その後、「HP100LX」が発売されましたね。
はい。実は発売前、同じ日本ヒューレット・パッカードのHP95LX担当者に、HP100LXのプロトタイプを見せてもらったことがありました。その時、「これを僕にひと晩貸して。そしたら中身を解析し、日本語化できるかどうか考えるから」と頼んでみたのですが、貸してもらえなかった。
担当者の立場から考えると当たり前で、そんな大切なもの、会社のいち新人社員に貸し出して、壊されでもしたら大問題ですよね。しかし当時は若かったから、とてもくやしかった。その思いをモチベーションに、HP100LXの日本語化を急速に進めたんです。ただし、その担当者にはナイショでしたね。
――日本語化ソフトは当初フリーで配布していましたが、その後、パッケージソフトになりましたよね。あれはなぜ?
NIFTY-Serveのフォーラムでサポートするのが、たいへんだったんです。いろんな人から質問や問い合わせが多くてね、NORIさんも、ユーザーを無料でサポートするのに限界を感じていた。
そこで1994年、オカヤ・システムウェア社長のごんたろ氏の尽力により、「HP 200LX日本語化キット」が発売されることになりました。そして、その印税のおかげで、僕はシリコンバレーに移住できたという。
――ええっ。会社は辞められたんですか?
はい。もともと僕はシリコンバレーに行きたくて、日本ヒューレット・パッカードに就職したんです。中学生のころから雑誌で「シリコンバレー」という文字をよく目にしていて、ずっと憧れていました。そこにはきっと、僕と話があうヲタクがたくさんいるだろうって。
だから、シリコンバレーに移住したい一心で、本社がシリコンバレーにある日本ヒューレット・パッカードに就職した。ところが毎年毎年人事にかけあっても、まったくシリコンバレーに行かせてもらえない。それどころか、「今の部署だと永遠に行けないよ」と言われてしまった。だから3年半経った1995年8月に退職し、日本語化キットの印税を使って語学遊学したんです。
――シリコンバレーで、かづひさんが期待したようなヲタクは見つかりましたか?
いいえ、シリコンバレーの語学学校に行っても、みんな普通の人ばかり。もちろんパソコンは使うけど、さほど好きということもない。あげくの果ては、いつの間にか自分がみんなにコンピューターを教えていた。無線のインターネット使い放題サービスがあったので、外からストリーミングでテレビを見せて「こういうことだ」と。コンセプトの実証実験ですね。
結局、今みんながスマートフォンで当たり前にやっていることだけど、1995年当時は、そんなことも想像できない人が多かったんです。
しかし、それから8年が過ぎ、ついに僕が探し求めたヲタクが集まる場を発見できました。2002年、僕は趣味で2足歩行ロボットを作り始めていたんですが、その翌年、地元に「ロボットクラブ」(HomeBrew Robotics Club)というものがあることを聞いてさっそく、その集まりに行ってみることに。するとそこには、さまざまなロボットを趣味で作っている人がたくさん集まっていたんです。その人たちこそ、まさに僕と話が合う超ヲタクな人たちでした!
――やっと見つけたんですね。それはよかった!
そこでは、みんな自分が興味を持っている分野のロボットを作ってきては、自慢し合うという感じ。分野はバラバラなのに、みんな相手がやっていることをリスペクトして、決してディスったりしない。「ヲレはそこには興味ないんだけど、でもすげーなお前!」みたいな。
この雰囲気、何かに似ていると思ったら、中学生時代、僕が雑誌を通じてその存在を知り、憧れていた「HomeBrew Computer Club」そのものでした。
HomeBrew Computer Clubが結成されたのは1975年。まだ「Apple II」が存在しない、部品を買ってコンピューターを自作していた時代です。その後、完成済みパソコンの普及にともなって、自作コンピューターの時代が収束した影響で結局、自作の最盛期は3年ぐらいしか続きませんでしたが。
ところがロボットは、幸か不幸か、なかなか家庭に普及しない。だから、ホビーとしての寿命がめちゃくちゃ長い。僕がHomeBrew Robotics Clubに初めて参加したのは2003年でしたが、いまだに、毎月ミーティングをやっているぐらいですから。
――まだしばらく、楽しめそうですね(笑)。
そのいっぽう、「PDA博物館」の連載を読んで改めて感じたのは、日本のLXユーザー間のつながりが本当に重要だったんだなぁということ。確かに、シリコンバレーにはヲタクがいたし、僕が望んでいたマニアックな会話もできた。しかし、いかんせん言葉が英語だから、こまかいニュアンスが伝えにくい。今回、お話ししたような話は、英語だと、だいぶ大ざっぱになってしまう。それは、僕の英語力の問題なんですけどね。
正直、あのころはLXユーザーたちのテンションについていけない部分もあった。みんな、LX熱が高すぎるんじゃないかって(笑)。とはいうものの、フリーウェアを公開した当時は、僕が旅行した時も行く先々で大歓迎してもらって、それがとてもありがたかった。だって僕なんて、ただのコンピューターヲタクですよ。そんな僕を、こんなに歓迎してくれる人たちがいることが不思議だったし、うれしかった。
シリコンバレーに行ったことは今でも、まったく後悔していません。けれども、日本を離れ、せっかくつながったLXユーザーたちと遠くなってしまったことでの機会損失はもしかすると、相当あったのかなという気もしました。ちょっと、もったいなかったかな、と。
インタビュー取材当日、“Palmの神様”である山田達司さん(関連記事:Palmが作り上げた“スマホのスタンダード”とは? スマホ誕生の影に、PDAという大いなる実験の舞台)も取材に同席されました。その理由を聞くと、かづひさんが長らく、山田さんに差し上げようと保管していた逸品をわたすために来てもらったとのこと。
せっかくなので今回、その端末をご紹介します。普通の携帯電話に見えますが、よく見るとGraffitiエリアがあるんですよ。
サムスン製のPalm携帯電話、SPH-i500
サムスン製のPalm携帯電話はほかにも、左からSPH-i500、SPH-i300、SPH-i330
「山田さん(※写真右)、間違いなくお渡ししましたよ」と、2人で記念撮影
「そうそう。僕、LXの外装だけ使った“Bluetooth Keyboard for iPhone 5s”っていうものも作ったんですよ」と、かづひさん。それどういうことだろう? と思ったら、あとからこんな写真が届きました……な、何と! iPhone 5sがまるでLXのように使えるではないですか!
HP200LXの液晶部分にiPhone をセット。これで、iPhoneの文字入力ができるんです
HP200LXの基板を差し替えて、Bluetoothキーボードを自作
かづひさんのメールによると「ちゃんと、iPhone 5sを入れた状態でもフタが閉まりましたよ」とのこと。ただくっつけたのではなく、十分、実用的に使えそうな気がする……。こういうことを思いついて、さささっと作ってしまうあたり、かづひさんって本物の発明家なんですね。おそれ入りました!
編集プロダクション。「美味しいもの」と「小さいもの」が大好物。 好奇心の赴くまま、よいモノを求めてどこまでも!(ただし、国内限定)